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響きあう脳と身体 (甲野善紀 × 茂木健一郎) Ⅴ

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ノイジーな環境でこそ、子どもは育つ



微妙な、

矛盾したものが同居しているような

全体性を把握するのは、


まさに甲野さんが最初に言われた、

同時並列的に起こっている

さまざまなことを感受すること

と同じですね。




直観的にちょっと思ったのは、

うちの母親なんかもよく言っていましたが、


昔の子どもって子守をさせられますよね。

昔は兄弟が多いし、

遊ぶときのも子守をさせられた。

今では考えられないことですが、



そういう

子どもが子どものお守りをする中で、

何か全体性を把握するような能力が

鍛えられてきたことはあるかもしれない、

と思います。



最近、菅原ますみさんという

お茶の水女子大学の先生から、

子育てにまつわるいろんな

おもしろい話をきいたんです。


そこできいた話は、

基本的に僕が

日頃直感的に感じていたことと

シンクロしていたのですが、



子育ての常識には、

いろいろ嘘がある

ということをおっしゃっていました。


たとえば

「子どもが小さいときには

母親が一緒にいなければいけない」。


これは嘘なんですね。




考えてみれば当然で、

子どもが影響を受ける人間は

親に限りません。


アメリカの研究者が非常に

地道に研究したところ、


子どもの人格形成において

最も影響が大きいのは


同世代の友人であり、

その割合は全体の八割を占めるという。


親の影響はたった二割だそうです。




それはそれ自体すごく

おもしろい研究だと思うのですが、

この結果を聞いて僕が考えたのは、

それは何よりも、


昔は両親がいて、

じいさんばあさんがいて、

近所のおじさんとかおばさんとかが

何かやたらと周りにいるという、



核家族から見るとわけのわからない

ノイズに満ちた環境で

子どもが育っていたことだと思うんです。



うちの母親は九州の小倉出身です。

小倉の人というのは、

リリー・フランキーの『東京タワー』

を読むとわかりますが、


近所の人に対してすごくオープンなんです。

小さい頃など、

家にはいろんな人がたくさんいて、


夏祭りとかになると、

隣近所のおじさんおばさんから

「酒飲め」と言われて

ちょっと飲んじゃったり、


ということがしばしばありました。



当然僕も両親から

大きな影響を受けているはずですが、


れ以外の人々の存在が、

僕の人格形成に

大きな影響を与えていた可能性は

高いと思います。




ちょうど栄養素が偏っちゃうとだめ

なのと同じように、


子どもに関係する大人の種類・数は

多いほうがいいんじゃないかと思います。


ですから、よく

母親の愛情が足りないからうんぬんというのは、

まるで逆だと僕は思う。



核家族で、しかも

母親が子どもにつきっきりで育てていると、

母親が育児ノイローゼになるのはもちろん、

子どもにとってもよくない。


むしろ幼稚園や保育園に行って

いろいろな人と接したほうが、

いいバランスになると思います。




社会全体がマニュアル化、

ノウハウ化を志向する中で、

「純粋培養のほうが効率的だ」という信念

が広がっているのかもしれませんね。


しかし、純粋培養が有効なのは、

あくまで言葉や論理で了解できる

世界に限った話です。



マニュアル的な思考

の世界にとどまっていては、


甲野さんが散々強調されている、

身体が持つ同時並列性は決して養われない。



いろいろな人に出会い、

感化されることがなければ

そういう力は養われません。


僕も甲野さんも最近は本当に

いろいろな人に会っていると思いますが、


子どもの頃からそれくらい

多くの人に会い、関わったほうがいい

と思うんです。




そうすると、たとえば

ちょっとしたサインによって

「この人は変だな」ということを

見分ける判断力がつく。


純粋培養だと、

大人になってから変な人に会った時、

対応の仕方がわからない。


そういえば

初めて甲野さんとお会いした時に、

武術の基本的なコンセプト

をお尋ねしたら、たしか



「何が起こっても対応できることだ」

といったお話をされていましたよね。



甲野:そうですね。


武術は、その起源は、

相手を殺傷する技術ではあるわけですが、


突き詰めると

「相手への対応」をどうするか、

ということにつきます。



ですから、

「武術なんて野蛮なものは私には関係ない」

なんて言う人がいますが、


生きている限り、

関係ないことはないはずです。



たとえば仕事をする中では

いろいろな人に会うでしょうし、


その中には論理的に片づくこともあれば、

論理じゃないところで

ぱっと切り替えて対応しなければいけない

場面も必ず出てきます。




つまり、話がこみいってきた時に、

その人の何気ない態度を含めた対応いかんで

状況ががらっと変わる

ということがあるわけです。


特に、謝罪の時などはその人の、

人としての力量が最も問われる時です。

謝るってけっこう難しいんです。


つまり、いじけもせず、

ふてくされもせずに、

率直にそのまま謝るというのは、

よほどセンスがよくないとできない。



謝り方が見事で、

それを認める方にも

それだけの感性があると、


謝罪というのは

その場が収まるだけではなく、


その後の親密な関係性につながる

大きなきっかけになる。



逆に、マニュアルどおり

慇懃に謝っても、

まったく伝わらず


相手をさらに怒らせてしまう

ことだってあるでしょう。



謝り方は、本当に

その人の力量がハッキリしますよ。


ですから私は、何かの折に

「若い人たちに何かひとこと」

と言われた時、



何か問題が起こった時に周囲から

「ああ、あいつが行ってくれれば安心だ」

と思われるような人になってほしい

と言っています。



相手に失礼にならず、

といって過剰に謝って

相手の不当な要求を受け入れてしまう

ようなことになることもなく、


何か予想外のことが起きても

それなりに対応できる。



そのためには非常に多くの能力が

求められると思うのですが、


そういう総合力のある人って

ほんとうに少なくなっていると思います。




これもよく講演などで話すのですが、

最近は鉄道自殺も多くて、

電車が突然止まることがしばしばありますね。


そういう時、昔の電車の車掌は、

私の記憶にある限り、ほとんど例外なく、

落ち着いて、うまく状況を説明していました。



ところが、今は


アナウンスを聞いていても、

しどろもどろで

何を言っているのかわからない

ような車掌が少なくない。




子どもの頃からさまざまな対人関係や、

いろいろな事件に遭うことを通して、

十分な経験を積んでる人は、


素早く状況を整理して言葉にできる。

ところが、


トラブルや葛藤を回避して

マニュアル的に育ってきた人は、

何か予想外のことがあると、

しどろもどろになってしまうんでしょう。


by sinonome-an | 2018-01-05 00:00 | 本からの資料

心と身体を観照する


by しののめ庵