フェルデンクライス身体訓練法 Ⅱ(M・フェルデンクライス / 安井武訳)

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自己イメージ




人間は

自らの社会的価値に従って

自己評価する



 現代の社会改革の一般的な傾向は、

社会を構成する人間的要素にたいする

ほとんど無視に近い軽視と

密接に結びついている。



 目的そのものに誤りがあるのではなく、

-それはたいてい建設的なものである-


個人がおのれの自己イメージを、


その当否はともかく、

社会にたいする

おのれの価値と同一視してしまう

ことに間違いのもとがある。



教育者や保護者の束縛から

自由になったあとも、


ひとは相変わらず


すでに自分自身に

刻印されているパターンから

いささかも外れたものになろうとは

しないのである。




というわけで、

社会を構成するひとびとの

習慣や行動や目的は、


ますます似かよったものになってくる。



本来ひととひとのあいだには、

遺伝的差異があることは

自明であるにもかかわらず、


社会によって与えられる

価値とは関係なく

おのれの姿を見ることのできる

人間はほとんどいない。




丸い穴に

四角い栓を

つめこもうとするかのように、


個人は

もって生まれた欲求から


自己を引きはなすことによって、

自らの生理学的特殊性を

努めて解消しようとする。



そして今や自ら進んで入りたくなった

丸い穴のなかへ、


自分自身を無理矢理押しこもうとする。



万が一それに失敗すれば、

自らの価値は当人の眼にも下落して映り、


さらに前進しようとする気持が

くじかれてしまうからである。



自己本来の成長を促進する、


つまり自らの特質を発達させ、

完全に開花させることを

追求しようとするならば、



以上の考察をよく心に留め、

自己にたいする個人の態度が

いかに圧倒的な影響力を持っているかを

充分に理解しておかねばならない。




なしとげたことだけで

子供を判断すると

自発性を殺すことになる


 幼児期の子供はたいていの場合、

なしとげたことがらによってではなく、

ありのままの存在として

評価されるものである。


そういう状態の家庭ならば、

子供は自らの個人的能力にそって

成長するであろう。



しかるに子供がなによりもまず

なにをなしとげたかによって

判断されるような家庭では、


あらゆる自発性の芽は

つみとられてしまうであろう。



そういう子供は

青春を体験することなく大人になる。


そのような大人は折あらば、

おのれの失われた青春にたいする

無意識の渇望にさいなまれ、



若々しい意欲が妨げられたため

充分発達させることのできなかった

本能的能力を、


自らの内部に探りださんとする欲望に

悩まされるであろう。




自らを改善するには

自己の価値を

認めなくてはならない



 理解すべき重要なことだが、


自己イメージを改善しようと望むならば、

たとえ社会の一員としての欠陥が

自らの特質にくらべて重大すぎる


と思える場合でも、

個人としての自己の評価を

認めることができなくてはならない。




 生まれたときから、

あるいは子供のときから

身体障害をもっているひとたちは、


明白な欠陥にもかかわらず、

個人がいかに

自己を直視しうるものか教えてくれる。



深く幅広い人間性をもって

自己を見つめることに成功し、


ゆるぎない自尊心を獲得した

そういうひとたちは、



普通の健康なひとたちが

決して達しえないような

高みを極めるであろう。


ところがからだの障害のために


ひとより劣っていると思いこみ、

たんなる意志の力だけで

それを克服しようとするひとは、



かたくなで恨みがましい大人になり、

欠陥を持たないまわりの人間に

恨みを晴らそうとしがちだが、


そういうひとは、

たとえその境遇を変えようと望んでも

実現できないであろう。





行動は

自己改善を

促進する際の主要な武器となる




 おのれの価値を認識することは、

自己改善にとりかかるに当たって

重要であるが、



真の改善を達成しようとするならば、


自己にこだわることは

二の次にしなくてはならないであろう。



利己心が

主要な動因でなくなる段階に

到達しないかぎり、


いかなる改善が達成されても

満足を覚えることはできないであろう。



事実ひとが成長発達するにつれ、

その全存在はなにをいかに行うかに

ますます集中するようになり、


だれがそれを行うかは

次第に重要でなくなるのである。





幼年期の

行動様式を変えることの

むずかしさ



 自己イメージは

生まれながらにさずかったものと

見られがちであるが、


実際には自らの体験の結果なのである。



外見、音声、思考方法、境遇、

時間空間との関係など

-思いつくままにあげるのだが-


すべては生まれながらにつきまとう

現実だと当然のごとく考えられているが、


他の人間たちや社会全体にたいする

個人の関係のなかの

あらゆる重要な要素は、



広範囲にわたる

訓練の結果にほかならない。




歩きかた、話しかた、読みかた、

写真のなかの三次元の認識方法などは、

個人が何年もかけて蓄える技能であり、


そのひとつひとつは偶然に左右され、

誕生の場所と時に依存する。




ふたつ目の言語を身につけるのは、

最初のときのようにたやすくはない。


新しく学ぶ言語の発音は、

最初の言語の影響をうけるであろう。



最初の言語の文章構造は、

二番目の言語のなかにも

姿を現わすだろう。


完全に同化された行動様式はすべて、

それ以後の行動様式の障害となるのである。




 たとえば、自分が属していない

他民族の習慣に従った坐りかたを

身につける場合、

いろんな困難が生ずる。



幼年期の

坐りかたの様式のようなものは、

たんに遺伝的特質だけの結果ではなく、


偶然や生まれた環境からくるのであるから、

その場合の困難は、

未知の習慣の性質にあるというよりも、



むしろできあがっている様式から

身体や感情や精神の習性を

変化させることにある。


およそ

習慣を変えようとするときには、

その由来はどうであれ、

必ずこのことがつきまとう。



ここで言わんとするのは、勿論、

ある行動を別の行動に

置き換えるというようなことではなく、


ある行動の実行方法、

その動力学全体を

一変することであって、



そうしてこそ、

新しい方法はあらゆる点で

古い方法にかわって

同じ力をもつようになるのである。



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by sinonome-an | 2017-09-01 23:01 | 本からの資料

心と身体を観照する


by しののめ庵