フェルデンクライス身体訓練法 Ⅲ(M・フェルデンクライス / 安井武訳)

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自己イメージ




からだには

自分で気のつかない

部分が多い



 あお向けに寝て

自分の全身を左右対称的に

感じとろうとすると


-つまり、手足から

からだの各部へと順を追って

注意を移すと-



ある部分は反応がよくても、

それ以外にぼんやりと鈍く、

意識でとらえきれない部分のある

ことがわかる。




 指先や唇の感じはつかみやすいが、

後頭部の両耳の中間の首すじの

感じをつかむのはかなりむずかしい。


本来、むずかしさの度合いは

個人的なものであって、


自己イメージの形態に左右される。




一般的に言えば、

全身くまなく

意識でとらえられるひとを

見つけるのはむずかしいであろう。



意識ではっきり限定しやすい

からだの部分は、

毎日使用している部分であり、


意識のなかでぼんやりと

あやふやな部分は、



そのひとの生活で

間接的な役割しか果たしていない

のであって、


行動にたずさわるときに

その自己イメージから

ほとんど欠落しているのである。




 歌うことが全くできないひとは、

知的な推測の努力をしなければ、


歌う状態を

自己イメージのなかに

感じとることができないし、



歌手のように口腔内の空間と

耳や呼吸との

重要な関係に気づくことがない。




跳躍のできないひとは、

それのできるひとならはっきりそれと

限定できるはずの


関係する身体部分に

気がつくことがない。





完全な自己イメージは

稀有の理想的状態である



 完全な自己イメージには、

背中、脇腹、脚の内側など、

全身の表面だけでなく、



骨格組織の全関節にたいする

最高度の意識が必要であろう。


まさに理想的な状態であり、

従ってそれは稀有のものである。




だれでもはっきり理解できるとおり、

われわれの行うことはすべて、

各人の自己イメージの

枠内におさまっていて、



その自己イメージは

理想的の狭い一部分にすぎない。


しかも

自己イメージのさまざまな部分の関係が

行動や姿勢を変えるごとに

変化するということは、


たやすく見てとれる。



ありふれた条件のもとでは

あまりにも身近すぎて、

すぐには気づかないことだが、


たとえば、脚の長さや太さ、

あるいはその他の外見が

動き次第で変化して見える

ということを理解するには、



なじみのうすい

動きの姿勢をとった

からだの状態を


想像してみればよい。




平均的な正確さの程度は

可能な最高の正確さには

はるかに及ばない



 われわれの自己イメージが


通常自分で考えているほどの

完全性や正確さから

はるかにかけはなれている

ということは、



慣れない動きをしてみれば簡単にわかる。




われわれのイメージは、


慣れ親しんだ行動を通して

形づくられるのであって、


その場合には種々の感覚が

互いに修正し合うように働くから、

現実により正確に近づくことができる。



だからこそ、

背中や頭の上よりも顔面の領域や、


立ったり坐ったりという

慣れ親しんだ姿勢に関する

イメージの方が正確なのである。




 寸法や姿勢のイメージのずれ

-眼を閉じたときと開いたときのずれ-

が20~30%以下ならば、


正確さの程度は

充分とは言えないまでも、

まずは標準とみなしてさしつかえない。



ひとはそれぞれ

自らの主観的イメージ通りに

行動する


 イメージと現実のずれは、

三倍

あるいはそれ以上にまで

なることすらある。




いつも息をつめて

極端に肺から空気を吐きだしたような

姿勢をとり、


必要以上に胸を平らくし、

そのため胸を

有効に使えなくしているひとは



眼を閉じたまま

胸の厚みを示すようにと言われると、

実際より何倍も

厚く表わそうとするものである。


そういうひとは、

多少でも厚みのある胸をみると、



わざとらしく肺をふくらませて

ひとに見せつける努力をしている

と思うのであって、




極度の扁平さがむしろ正常だと考え、


故意に突きだした胸に

普通のひとが抱くような気持を、

正常なふくらみにさえ感じるのである。



 肩、頭部、腹部の保ちかた、

声や表情、自己表現の安定度や

方法―これらはすべて各人の

自己イメージにもとづいている。




ところが、この自己イメージそのものも、

まわりの人々に見せたいと思う姿に

自分を変えるため身につける

仮面の形に合わせて、


切りつめられたり

引きのばされたりしているのだ。



自分のうわべの姿の

どの部分がつくりもので、

どの部分がほんものかを知りうるのは、

当人以外にはない。


けれども自己を見きわめるのは、


だれにもできるほど

生まやさしいことではないから、



他人の体験というものが、

大きな手がかりとなるであろう。


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by sinonome-an | 2017-09-08 18:00 | 本からの資料

心と身体を観照する


by しののめ庵