フェルデンクライス身体訓練法 Ⅶ(M・フェルデンクライス / 安井武訳)

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能力の改善



可能性の限界をひろげ、

不可能を可能に、

困難をたやすいものに、


たやすいものを楽しいものに

変えることである。



なぜなら、


たやすくて楽しい活動のみが、

人間の日常生活の一部となり、


いかなる場合にも

役立つものとなるからである。




実行するのが苦しい行動、

そのために

自分の内部の抵抗を

無理矢理克服しなければならない


ような行動は、

自分の日常生活の一部とは

決してならない。



年をとるにつれ、

そういう行動を行う能力は

すっかり失われてしまうだろう。



 たとえば、五十歳以上になると、

たとえ低くても

垣根を跳びこえるようなひとは

滅多にいるものではない。


どこかに廻り道がないかと

捜しまわるであろうが、



若いうちならば、

苦もなく跳びこえてしまうだろう。




これはなにも、
むずかしそうなものは
すべて避けるべきで、


障害を克服しようとする
意志の力を使ってはならない
ということではなくて、



能力の改善と
たんなる努力のための努力

とを明確に
区別しなくてはならない
ということなのだ。


意志の力を使うなら、

能力を改善する方にふり向け、
その結果、


たやすく
よく理解して
行動できるようになったほうが
いいではないか。




能力と意志力



 能力が高まればそのぶんだけ、

意志による

意識的努力の必要は

少なくなる。




能力を高めるために努力するだけで、

意志力を鍛えるのに必要にして

充分な効果がある。


その点をくわしく検討するならば、

意志力の強い

(もっぱら意志力だけを鍛えた)

ひとは、たいてい



能力が比較的貧しいひとである

ことがわかるであろう。


効果的にからだを働かすすべを

心得ているひとは、



たいした準備も

大騒ぎもせずに事をやってのける。


意志力の強いひとは、

適度の力を効率よく使うかわりに、

大きな力をこめすぎるきらいがある。




 もっぱら意志力に頼ると

緊張する能力ばかりを

高める結果になり、



エネルギーを

適切に配分して方向づければ

はるかに少ないエネルギーで

実現できる行動に、


とてつもない力をこめるのが

習慣になってしまう。




 このふたつのやり方は、

どちらもたいてい

目的を達成できるけれども、


後の方法は、

重大な傷害の原因になることがある。



動きに転化されない力は、

簡単に消滅しないばかりか、


分散して、

努力を生みだすのに使用した



からだの各所に

傷害をひきおこす。




動きに転化されないエネルギーは、

からだの機構のなかで熱に変り、

その機構が

ふたたび効果的に活動するためには、


修理を要するような変化を生みだす。



 どんなことでも

うまくやれた場合には、

むずかしくは見えない。


むずかしくみえる動きは、

正しく行われていないからだ

と言ってもさしつかえないだろう。






動きを理解するには

緊張せずに

感じとらねばならない



 学ぶには


時間、

注意力、

識別力

が必要である。




識別するには、感じとらねばならない。


要するに、学ぶためには、

感覚の力を

研ぎ澄まさなくてはならないのだ。




ただ力だけに頼って

ほとんどのことを行おうとするならば、

求めているのとは

全く正反対のことを


実現する破目になるだろう。




 行動を学ぶときには、

自分の内部に生じていること

にたいして、


自由自在に

注意を向けられなくては

ならない。



なぜなら、

そのような状態でこそ、


われわれの精神は明晰なものとなり、

生き生きとして

コントロールしやすい

ものとなるのだ。




そこにはもはや、

力からくる緊張というものがない。


ところが、

最大限の緊張という状態で

学習が行われる場合、


能力はすでに

その限界まで使われているので、



まだ不充分だと思っても、

もはや行動を速めたり、

強めたり、

改善したりする余地はない。



そうなると、

息はつまってしまい、

あるのはただ過剰な努力だけ、




観察する力は皆無に近くなり、

改善の期待は一切なくなってします。


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by sinonome-an | 2017-10-06 18:00 | 本からの資料

心と身体を観照する


by しののめ庵