心理療法としての仏教(安藤 治)から Ⅰ

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自己覚知と思いやり



「自己覚知」

つまり「自分の内面に気づくこと」、

それは思考によって

概念的に知るということではない。



それは一生懸命に考えたから

できるというものではない。


また、意識的にいくら努力したから

得られるというものでもない。



むしろ、


この意識的に考えようとする

気持ちや力が

ふと抜けたところで、


「気づき」がもたらさせる

といった特性のものである。




 内面に気づくことは、

意志や考えというよりも、

痛みやだるさなどの身体的感覚のほうが

むしろ近いと言える。


その意味で「自己覚知」は、

自分が意識できていなかった

繊細な感覚を


敏感に捉える能力を指すものであり、

一種の「洞察力」と呼んだほうが

的確に言い当てている。




つまり、

「自己覚知」を深めるということは、


「洞察力」を養い培うことであり

それは一瞬一瞬の行動に、

より繊細な注意を配る能力を

育てていくことを意味している。



 少し自分を

顧みてみればわかるはずだが、


私たちの意識的注意は、

もっぱらほとんどが外部の


目に見えるものや

耳に聞こえてくる音などに

向けられている。



私たちの日常生活は、

そうした外部からの

「刺激」や「情報」に

絶えずさらされており、


そこに釘づけになってしまっている

とさえ言えるだろう。


しかし、

「内面に気づく」のは、


これとは

まったく異なる意識的注意

によってなされるものである。



私たちは生活している限り、

外部の物事や

たくさんの刺激にさらされているが、


外部の物事を

見たり聞いたりしている時にも、


そこには「内部」に生じている

感覚がある。



私たちは普段、

その「内面」を

ほとんど「観る」こともなく過ごし、


すっかり「外部」にばかり

とらわれて生きているのである。




 たとえば、いま

目の前に林の木々が見えているとしよう。



目に映っているのは、

写真と同じように見える

木々の外観や風景である。


しかし、そこでほんの少し

意識を内側に向けてみれば、


その木を見ながらも、

自分の中にはさまざまな感覚が

生まれているのがわかるはずである。



木の姿が美しい、

木々の間を通る風の音が

心地よいと感じている、


日の光にきらめく葉に

柔らかい暖かさが呼び起こされている、



その潑刺とした


淡いグリーンの色つやには

光を浴びている

無邪気な喜びや健康さが

感じられてうれしい、などなど。



これらは実際、

明確に意識にはのぼってはこないし、

言葉にできないものでもあるが、


木々を見た一瞬に、

すべてを全身が感じ取っているのである。



 しかし、普段の生活のなかでは、

いまのように立ち止まって

「自分を観る」ようなことは

ほとんどない。


それらの感覚は、

そうしない限りはいつも封印されている。



そうした感覚に対する

繊細な注意の意識は、

ほとんど感じ取られないまま見過ごされ、


次々に目の前にやってくる

物事をこなし続けながら、

忙しい日常生活を送っている。




 これは、

物事を目にした時、

耳にした時、

人に会った時など、


生活のなかでいつでも

起こっていることである。



人に会った時、

私たちはその表情や言葉から

いろいろなことを汲み取っている。


そして、

その汲み取り方には「深さ」がある。



人の言葉を聞けば、

その言葉の意味が汲み取れるが、

その時、その言葉には

さまざまな表情があるだろう。



たとえば「こんにちは」

という一言を聞いて、


そこに暖かさ、冷たさ、

一見明るいがどこかに陰がある、

といったことだけではなく、



この人は

どこか健康を害しているのではないか、


何か後ろめたいことがあるのではないか、

さらには、過去に

こんな仕事をしてきた人なのではないか、



こんな人生を送ってきたのではないか、

などがふと感じ取れるようなこともある。




 もちろん、

それらは主観的な思い込みにすぎない

と言うことができるし


実際まったく見当違いなことも

あるかもわからない。

だが、私たちは、



その出会った一瞬に(その時には意識

できていないものも含める


さまざまな意味を汲み取っており、

それには「深さ」があるのだ。



それは決して、

意識的に考えることによって

知られるものではない。



 ただ無自覚に

普段の日常生活を過ごしている時は、


そこにある「自分」や「内面」は

簡単に見過ごされ、


表面的な感覚に触れるだけで

時が過ぎ去っていく。



その奥にある「より深い」感覚は

自覚されず眠ったままである。




それに気づくためには、

習慣になっている

日常的な意識的注意のあり方を

変えなければならないわけだから、


それは決して容易なことではない。



それゆえ、私たちには訓練ないし

修練が必要なのである。




 少しずつでよい、

そうした「内面」を汲み取る

(自分を観る)訓練を

積み重ねていくことによって、


力(洞察力)は身についてくる。



どんなことでも学ぶには、

努力と訓練が必要なことは

誰もがよく知っているはずである。


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by sinonome-an | 2017-10-13 18:00 | 本からの資料

心と身体を観照する


by しののめ庵