心理療法としての仏教(安藤 治)から Ⅱ



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共有空間に対する意識



 内面に向いた

繊細な注意の意識が培われるならば、


「いまここ」に起こっている

たくさんの感覚に敏感な感性をもち、



その場に起こっている現象に対する

「深い」汲み取り能力、

すなわち「洞察力」が生まれてくる。




他者に出会った時、

一瞬一瞬

そこに起こっていることを汲み取って



「自分を観る」能力を大事にしていけば、

おのずとそこには、


以前よりも深まった

「洞察力」が身に備わって行くであろう。




「思いやり」とは、

この能力に基づく

心理や態度を指す言葉である。


それは文字通り

「思いを遣ること」である。



その場に起こっている

たくさんの内面の感覚に

繊細な注意をもつこと、


すなわちそれらに「思いを遣る」こと。




 目の前にいる人が

実際はどう感じているのかは、

その人でなければわからない、

と言わねばならないが、


その当人にわかっていないものが

外から感じ取られ、

汲み取られることもたくさんある。



その場に起こっていることは、

決して個人個人の皮膚の中に

閉じこめられてはいない。


それは人と人の間にある

「共有空間」で起こっていることである。




「洞察力」とは、

その「共有空間」に起こっていることを

汲み取る能力のことである。



内面的感覚への繊細な気づきは、

「共有空間に対する意識」の

深さを

表すものであり、


その度合いが

「思いやり」の深さなのである。



したがって、もしそう呼びたければ、


木に対する思いやり、

空に対する思いやり、

壁に対する思いやり、

イスに対する思いやり、


というものも可能であろう。



そこには「共有空間」がある。


木と自分との共有空間、

それに対する意識には深さがあるのだ。



その意識がより深まっていけば、

木に対する「思いやり」は深くなる。


自分がそこで木の声を聴けば

(木に対する洞察力を深めて

「観る」ならば)、



木に対してしてはいけないことや、

してあげられることなどが、

おのずと見えてくるだろう。


そして、自分を木の共有空間は、



自分と自然へ、

自分と人へ、

自分と世界へ、

自分と地球へ、


というように、

次々と広がっていくにちがいない。




 ここで注意しておきたいのは、

「共有空間に対する意識」を

「観る」という作業は、


他者や相手に意識を向けることではない

ということである。



通常「思いやり」と言うと、

「他者の気持ちになる」

あるいは

「他者の立場になって考える」


などといった言い方がよくされるが、



「思いやり」とは、

他者に「思いを遣る」ことではない。


相手だけを見ていれば、

そこには「同情」が

容易に生まれてくるだろう。



しかし、「同情」は

「思いやり」とは

まったく違うことである。




「思いやり」とは

相手の気持ちになることではなく、


相手を通して生まれてくる

自分の内面に「思いを遣る」こと

なのである。




 簡潔に言えば、

「思いやり」とは


「共有空間に対する意識」である。



~中略~



 「思いやり」は、

そう簡単に養い培えるものではないが、

決して養うことが不可能なものではない。


日々の心がけや訓練によって、

それは育ち、

深められていく能力である。



「心理療法としての仏教-安藤治-」




ちなみに「仏教」とは、

ブッダによって説かれた



「人間のあり方や生き方」です。


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by sinonome-an | 2017-10-20 18:00 | 本からの資料

心と身体を観照する


by しののめ庵