意見を変える難しさについて

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「追補 精神科診断面談のコツ」

    神田橋 篠治




人が自分の意見を変えること

の難しさについて

少し語ろうと思う。



まず、ちょっとした小話を次に示す。

熊さんと御隠居との問答である。


「御隠居さん、知ってますかい。

こないだ越して来た向かいのうちの子、

足つかってメシ食ってますョ」


「そんな癖はよくないねェ。

早く直さなきゃねェ」


「けどね、あの子随分、

両手がちっちゃいみたいですよう」


「ああ、そうかい、そうだろう。

熊さんは知るまいが、そういうことは、

物の本にちゃんと書いてあってな、


何といったかな、

うん、廃用性萎縮というのが

起こっているんだなあ」


「エッ、何ですって?

ハイヨーセーイシュクって、

何の掛け声です?」


「掛け声じゃない。

人の体は使わずに怠けておくと、

だんだん縮んでしまうということを、

学問の言葉でそういうんだ。


廃用性萎縮が

起こっているところをみると

もう、その癖が起こってから

随分日が経っているな」


「何だ。学問の符丁ですかい、

ええ、生まれてこのかた、

足ばっかり使ってるって話で、

そりゃ器用なもんでさあ。


あれぁ、やめさせたら、

メシ食えなくって

痩せっちまいませんかねェ」


「永年染みついた

癖を直そうというのは、

そりゃ、

並たいていの苦労じゃないよ。


本人も家の者も、

心から治りたい、

治してやりたいと念じて、


苦しくても頑張らなきゃいけませんョ。

熊さん、ご存知かい。


馬を水ぎわまで

連れてくることはできても、

水を呑ますことはできない。


結局、

本人の意欲次第という理だなァ」


「なるほどねェ。

あそこの親の話じゃ、


あの子が腹ん中に居る時分に

女親が妙な薬、

呑まされたせいだというですがねェ」


「そうかい、そうかい。


何か他のところにわけがあるとか、

何かの崇りだとか、

そんな風に辻褄をあわして、

腑におちた気になる。


昔から、迷信というものは、

そんな風にしてできてくるんだ。

熊さん。お互いに気をつけなきゃねェ」


「御隠居さんは

学問があんなさるから、


ひとつずつ、

こいつはこうだ、こういうわけだ、

とちゃんと説いてくださるんで、

すっかり腑におちますねェ」



 生物は本来保守的なものである。



自分の生活の中に、

不連続をつくりたくない。


人は、

歩きはじめた道を変えたくはない。


一度立てた判断を

とりさげることを好まない。



人生に不連続をつくることは

健康を損なう結果となるからである。


それゆえ、

不連続をつくるまいとする動きは、

無意識に健康法として作動し、


一度たてた判断と

新しい情報とが

矛盾しないように認知してしまう。



その様子は、小話に示した通りである。

さらに悪いことに、


精神科学の分野は

事実がさほど歴然としていないので、

小話の場合よりも

論と事実とのずれが判然としにくい。


それゆえ、

歩いている本人の自覚としては、

何の矛盾もないことになる。


おさらく本書の中で、

わたくしもそうした誤認を

無数におこなっているのであろうが、

当のわたくしはそれを自覚し得ない。




 この保守性と正面から戦っても、

勝目はない。


理性の側でできることといえば、

保守性とぶつかりあうのではなく、



いくばくかの自由を得るための

工夫だけである。


それには二種の工夫がある。


そのひとつは、

初っ端から、道を一本に定めないよう

心がけることである。



選択肢が多ければ、

保守性の下でも若干の自由がある。


わたくしは常々、後輩の精神科医に

「アイデアは、

最低三つ出すように工夫しなさい」

と教えている。



人は、全くアイデアがない

ということには耐えられない。


「分からない」

「何も思いつかない」といえる人は

とても強い精神力の持主である。



苦しまぎれにどうにかして、

ひとつアイデアをひねりだすのが

人の常である。


だから、

ひとつしかアイデアがないのは、

ひょっとしたら、

実質は零なのかもしれない。



ひとつだけでもアイデアがつくれて、

その際少しの余力がありさえすれば、

一つのアイデアの正反対に

目を向けることで、


簡単に

もうひとつのアイデアを生産できる。

だから二つまではわりに楽なのである。



ところが

第三のアイデアをひねりだすのは、

本当に連想が豊かでなければできない。



小話の中の御隠居を例にとると、

足でメシを食っている子

の話をきいた瞬間に、


御隠居が「癖を直す」

以外のアイデアを思い浮かべていたら、


その後の熊さんから提示される

新しい情報をもとに、



考えの道筋をかえることは

もっと容易となり、


保守性とも

正面衝突しないことになる。



なぜなら

口にはださなかったけど、


一度自分が考えたアイデアに

添っているのだから、


自己の一貫性は

失われていないからである。



たとえば、つぎのような対応を

思い浮かべていたらよかっただろう

と思う。



「御隠居さん、知ってますかい。

こないだ越して来た向かいのうちの子、

足つかってメシ食ってますョ」


1)「おや珍しいね。一度みてみたいね」

隠(2)「そりゃ、軽業の子かい?」

隠(3)「五体満足にそろっていてかい?」


隠(4)「無理してやってるのかい?」

隠(5)「好きでやってんのかい?」

隠(6)「手で歩くのかい?」




 そのような対応が

一瞬でも御隠居の

脳裏をかすめていれば、


その瞬間口に出さずとも、

その後の話の展開は、

よほどちがうものとなり、



御隠居は、

学問など持ちだすまでも

なかったであろう。


少し心を凝らしていると、

似たような例を精神科日常臨床で、

山ほど見つけることができる。




 保守性と共存するための

第二の工夫は、


考えの道筋を踏みかえ、

不連続をつくることを、


自分の一貫した生きる道である

と考えることである。



その心構えをもつと、

不連続は表層であり、

自己はそれと一体化していない、


もう一段深層に

一貫した自己の生きる道が在る

というイメージが起こる。



したがって、

保守性と衝突しない。


この姿勢は自己の職業を、

修業ととらえている人びとに

共通してみられる特徴である。



この種の人たちでは、


不連続は小さな悟りの瞬間として、

喜びの感情で迎えられることになる。



その種の人びとのうち、

優れた人にとっては、

修業という厳しいイメージを、


遊びという気楽なイメージとが

区別できなくなり、



おおむね重なっていることが

よくみられる。




そうした人びとにとっては、

前述の、

アイデアを雑多に噴出させる遊びが、


ひどく肌に馴染むように

感じられるようである。


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by sinonome-an | 2017-11-24 18:00 | 本からの資料

心と身体を観照する


by しののめ庵