響きあう脳と身体 (甲野善紀 × 茂木健一郎) Ⅰ

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時系列の科学と、同時並列の身体



甲野:茂木さんと対談

させていただけることが決まって、

私がいちばんお聞きしたいと思ったのは、


人間という複雑な存在を、

科学、すなわち


言葉による論理に基づいた手法で

果たして読み解けるのかということです。



人間というのは、

普通に生活しているだけでも、

ものすごくたくさんの情報を

同時並列処理しています。


~中略~思考や論理というのは

根本的に時系列順です。~中略~



そうすると、

人間の複雑な動きのように、

たくさんの情報が

同時並列的に処理されているものを


科学に基づいた論文にするのは

根本的に不可能なのではないか

と思うのです。




ところが、

そういう複雑な人間の活動を取り扱う

バイオメカニクスなどの科学領域では、

いまだに論文主義が幅を利かせています。


論文というのは

「Aの時にB、

そしてそのBがCに変化する・・・」


という時系列順の論理の

積み重ねで書かれるものですが、


それでは同時並列的にたくさんの情報が

変化する複雑な現象である、

人の運動を取り扱うことは


できるはずはない


と思うのです。

しかし、

なぜこんな簡単なことに、

体育関係の学者が

ひとりも気づかないのかが、


私にとっては、

実に不思議なんですよ。


あるいは、

気づいているのかもしれませんが、

そう言うと

自分の仕事がなくなってしまう

と思って黙っているのでしょうか。




茂木:養老孟司先生も

「二〇世紀の科学は生命ひとつ作れなかった」

とおっしゃっていましたし、


生命現象について、

われわれはまだまだ理解できていない

ことのほうが圧倒的に多い。



というのが正確な現状認識だと思います。

要するに、


現時点で科学が扱えることと、

扱えないことがあり、

その区別を正確に持たなければいけない

ということでしょう。


いちおう私は科学者なので、

今日は甲野さんからの

批判の矢面に立とうと

覚悟してまいりました(笑)。




甲野:いやいや、茂木さんのような、

柔軟な発想で

根本から科学を考えるような方は

私との話を拒否されないし、


むしろ興味を持って下さるんですよ。


私の経験では、

工学系の方はだいたい

話の通りがいいですよね。



特にロボット工学の現場などでは、

論文や設計図に基づいた研究は

限界にきている

ということが共通認識になっていて、


お話をさせていただくと

「(身体のような複雑なシステム

に対しては)論文主義ではとても

対応できない」


ということで見解が一致します。



工学系では、

理論であれこれ考えるよりも、


とにかく作ってみて

シュミレーションを重ねる、


という試行錯誤を繰り返すことが

研究の中心となっているみたいですね。



ですから、話の通りがいい。

しかし、

体育やバイオメカニクスの現場は

いまだに論文主義が主流で、


ウエイトトレーニングを

何時間やったらどうだったという、


「Aの時にB」という

時系列順の論理から脱皮できないでいます。



そういう意味で、

私はより本質に近い身体の動きの解明は、


工学系の方の研究成果を

身体運動研究に還元していくほうが、


これからは体育や、

スポーツ自体を研究している部門よりも、

期待がもてるんじゃないかと思っています。



ウエイトトレーニングに固執する

体育関係者は、科学的なのではなく、

科学に過剰な憧れとコンプレックスを

抱えているんじゃないでしょうか。


つまり、「Aの時にB」

といった論理ではどうしても、

同時並列的な身体動作を記述できない

という事実に直面したとき、


体育関係の研究者は運動のほうを

「科学」に合わせようとしている

んじゃないかと思うんです。



データを取って論文を書くということは、


データを取って論文を書きやすいような

部分的な状況設定に限定化させている

傾向がどうしてもあると思うのです。



ウエイトトレーニングのような

部分的な運動のほうが、

当然のことですが論文は書きやすい

ですからね。



運動を扱うあらゆる研究分野の中でも、


「ウエイトトレーニングをやったら

こうなりました」というのは、

もっとも論文になりやすいもの

のひとつでしょう。


つまり、

あまりにもいろいろなファクターが絡み合って、


普通なら論文にならないいようなテーマ

であるはずの


人間の身体やその運動を、

取りあえず論文になるようなものに

限定して研究する。



その結果、

人間の身体や運動そのものが、

同時並列的で豊かなものから、


部分化、限定化されて

矮小化してきてしまったのではないか

と思うんです。



そういう流れの中で

犠牲になっているのは

選手達でしょう。


そして、これは筋トレの場合など、


トレーニング機器を作るメーカーや、

プロテインを作る製薬メーカーが

巨大産業化してくることによって、


さらにその方向性に

拍車がかかっているのではないでしょうか。

~中略~




茂木:~中略~

私たちは科学者として

生きているわけではなくて、

生活者として生きています。


科学で説明できないからといって、

存在しないというわけではありませんから、


科学で説明できない部分を

何らかの形で引き受け、

生活者として実践していかなくてはならない。




そうすると結局、

科学で説明できないことについては、


自分の経験や感覚、

歴史性を通して引き受けていくしかない

んですよね。



世の中にある現象のうち、

易しいものは科学で説明できるけれども、

難しいものは科学で説明できない。


でも、生きていくためには、

科学で説明できない難しさのものも、

たくさん活用していかなくてはいけない。



生活者である私たちは、

科学がすべてを解明するのを

待つことはできませんから、


「これは今のところ

科学的には説明できない現象なんだ」

と受け入れ、


それ以外の説明を

活用していくしかないということです。




少なくとも現時点では、

甲野さんの武術のような

高度な運動を取り扱うのは


科学そのものではなく、

生命哲学に位置づけるべきだと

僕は思います。



甲野さんのお話は単なる

運動科学にとどまるものではなく、


ニーチェやベルグソンのような

哲学者の考えてきたことと

密接に関係していると感じています。


そういう意味では、


宮本武蔵のような人たちも、

生命哲学者として扱えるといいと思う。




僕も、「脳科学ではどう考えますか?」

とよく聞かれるんですよ。


たとえば、

「英語を始めるのは小学校の時がいいのか、

基礎ができた中学校の時からがいいのか」

と聞かれる。



しかし、少なくとも現時点では

その質問に脳科学が一〇〇%確実に

答えられることはありません。


それは実は、

科学的にはとてつもなく複雑で

難しい問題であり、


少なくとも現時点では科学に頼らず、

自分の経験や知恵、

勘によって選択するしかないんです。



逆に言えば、

今脳科学の知見で言えることだけを基に

人間像を組み立てたら、


ものすごく陳腐なモデルになってしまう。


ですから、甲野さんが研究されている


武術的身体運動と、

ウエイトトレーニングに代表される、

要素還元論的な身体観との間にあるズレは、


僕が身近な問題と感じている、

脳科学の成果と

私たちが生きる現場の間のズレと

同質だと思います。



もちろん僕は、

脳科学の知見を参照にしているから、

普通の人よりも

脳のことはよくわかっているでしょうけれど、


先のような

「英語は何歳からはじめるといいか」

といった質問に答えようと思ったら、


生命哲学とか経験則で答えるしかありません。


でも、それでもかまわないんですよ。

科学的に言えないからといって、

黙っている必要はない。


そのあたりはすごく

バランスが難しいところではありますが、

少なくとも、

「科学的な根拠に基づいて何かを言う」

という時には、


それによって

大事な経験則や生命哲学が

損なわれてしまうことがないように

気をつけなければいけないと思いますね。


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by sinonome-an | 2017-12-08 00:00 | 本からの資料

心と身体を観照する


by しののめ庵