響きあう脳と身体 (甲野善紀 × 茂木健一郎) Ⅵ

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多様性は社会の豊かさ



茂木:一言でいえば、人間存在が

どんどんマニュアル化してきている

ということになるでしょうか。


えらいことですね。

それは、甲野さんが

ライフワークにしている



身体というものが

全般的にやせ衰えている



ということと、

ものすごくリンクしていますね。


身体と精神のリンクを感じます。




甲野:そうですよ。いろんなことって

全部リンクしているんですよ。

~中略~



『逝きし世の面影』を読むと、


いかに当時の日本人が、

生活の中で居心地のよさを感じ、

生きることを楽しんでいたか

ということがわかります。



しかし結局、文明開化にともなって

そういう生活のあり方は

どんどん否定されてしまったんですね。



その後、明治政府が盛んに

江戸時代は野蛮であったという

宣伝をしたこともあって、


現在ではその頃の生活のよさ

のようなものは

ほとんど認識されていない

んですね。




日本の国民自体が、

明治維新以前は圧政の時代であったと

思い込んでいる。


もう少し歴史的なことに踏み込むなら、

明治維新後、日本が三〇年ほどで

それこそロシアに勝ってしまうほどの

急成長を遂げた背景には、



そういう多様で、

混沌とした環境で育てられた

個々の人間の能力というものがあった

と思うんですよ。




平和と豊かさ、

あるいは安全は、


人類が共通して追及してきたテーマ

だとは思いますが、

それが曲がりなりにも歴史上、

最もかなってきた二一世紀の現代日本は、



生きる目的を失って自殺する人や、

目的が定まらずニートやひきこもり

になる人がものすごく増えてきている。



つまりこれもやはり、

「長所即欠点」なんですね。


いくら求めても

なかなか得られなかった

安全や豊かさが、


歴史上かつてないほど

達成されたからこそ、



ニートやひきこもりという問題が

出てきたのだということを

もう一度、認識する必要があるでしょう。


これは単純な話で、たとえば

ひきこもりとかニートが問題だ

なんて言っても、



みんな食うに困らず、

死の危険にさらされているわけじゃない

からできるわけで、


つまり昔のように本当に

生活には困っていたら、

あり得ない話ですよね。



昔は働かなければ

親自身も食えないくらい、

みんなが貧しかった。


そういう状況では、

ニートやひきこもりなんていう

問題は存在し得ないということです。



誤解のないように付け加えておくと、

これまで再三

「昔は・・・」「今は・・・」

という話をしてきましたが、


これは単純に

「昔はよかった」「今はダメだ」

ということで片づく話ではありませんね。




昔だったら到底あり得ないような、

夢のような

すばらしい状況が実現してみたら、


まったく予想していなかった

さまざまな問題が出てきた

ということであって、



じゃあどうすればいいかということに

単純な処方箋はない。

でも、その根底にあるのは、



得るものがあれば失うものがある、


極めて単純な原理なんじゃないかと思います。


~中略~



茂木:実際、僕の周囲でも

「自分のリアルな人生が何なのか

よくわからなくなってきた」

という話をよく見聞きしますからね。



甲野:ひとつはやはり


身体感覚が

すごく疎かになっている

ことがあるでしょうね。


~中略~



自然に動く自分の身体のすごさ、

ありがたさ、あるいは

おもしろさをあらためて実感することが、


現代人の不全感、閉塞感から

抜け出すためには大事

なんじゃないでしょうか。




私は、茂木さんが指摘されたような、


現代人が共通して抱える不満や、

もっと大きな環境問題なんかを

解決していくにはそれしかない

と思っています。




究極の選択ではありませんが、

脳波を読み取るロボットを作って、

日常的なことを全部ロボットに任せて

「楽だ楽だ」と言いながら生きることと、



健康でよく動く身体を使って

働きながら生きることとでは

どちらがいいのかということなんですよ。




薪を割って火を起こし、

料理を作って、掃除をして、

そういう精妙な動きができる


身体というものの不思議さ、

おもしろさ、

ありがたさを感じる



ことができるなら、

十分、生きていることに

満足できると思うんですよ。



ところが、そのへんのことは

当たり前にしか感じない。

だから、特に感謝する気もしない。


しかしよく考えたら、

普通に歩いているだけでも

すごく不思議なことなんですが、


それがちっとも不思議だとも、

ありがたくも感じなくなっている。

そこに根本的な問題が

ひとつあるようですね。




茂木:それはやっぱり、


現代人の脳が

なかなか満足しない脳

になってきている、

ということなんでしょうね。




甲野:それはあるでしょうね。だから

人間はいろいろなものを

発明発見するように宿命づけられている

とも言えるのでしょう。




ただ、身体自体が、

昔に比べたら

どんどん不器用になっていますからね。


つまり、機械がどんどん発達する中で、

どうしても身体が使えない人は増えてくる。



そうすると、


自分の身体のおもしろさ、

不思議さということを

実感しにくくなってくるので

余計に身体を使わなくなる。



そういう悪循環もあるでしょう。


でも

自分の身体のおもしろさ、

不思議さを強く感じることさえできれば、


人間は、今進んでいるような

「とにかく便利に」という方向とは

違う方向に行けるんじゃないか

と思っているんです。



もちろん現状を見ていると、

それは奇跡的に難しいことにも感じますが、

何が起こるかわかりませんから。


もしそういうことに

おもしろさを感じてくれる人が増えたら、


一人ひとりが抱えている問題はもちろん、

世界的な、たとえば環境問題なんかも

ずいぶん違ったことになるんじゃないか

と思っています。



~中略~

茂木:なるほど。

今、ピンときたのですが、

甲野さんがなさっているような、


いろんな筋肉を同時に

パラレルに動かしていくことを、

知的なレベルでもやっていく

必要があるのではないでしょうか。



つまり、今の知識人というのは、

甲野さんが批判されている

スポーツトレーナーの


筋トレ信仰のように、

部分部分しか取り扱わない。




たとえば

社会学者は社会学的な観点を、

歴史学者は歴史をと、

部分しか考えない。


それは要するに

「この筋肉を動かしましょう」

というのと同じですよね。



部分部分を鍛えることをやめて、

全体をトータルに、

同時並列に動かしたらどうなるのか、


というのが甲野さんの武術だとすれば、

それと同じことを

知識人もやらなければならない。



~中略~

だって、今のインテリって、

尊敬できる人がほんと少ないんですよ。


それは、部分の筋トレをやるような

知識の養い方しかしていない人が多い

からですね。


それは、知識人として

堕落と言っていいと思います。



~中略~

それに対して、たとえば

モーツァルトの作曲であったり、

ケプラーの天文学であったり、

ゲーテの文学であったりといった、



偉人たちの総合的な知性の運動は、

全然別物なんです。


彼らのは、まさに

甲野さんがおっしゃるところの



同時並列的な身体運用の

「知性バージョン」と言っていいと思う。

「同時並列的知性」です。


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by sinonome-an | 2018-01-12 00:00 | 本からの資料

心と身体を観照する


by しののめ庵